2009/03/15

香港生活終えて2 長い休暇で学んだこと

仕事を再開して早くも3週間。

もうすっかり、1年前と同じ感覚で仕事をしている。復帰前は、毎朝目覚ましで起きて電車に乗って・・・なんて生活は苦痛だろうななんて思っていたけれど、あまりに早く、3日目くらいには慣れてしまった。日常に戻ったという感じである。

ひさびさで新鮮な仕事はまだ責任が重くかかっているわけでもないのでそこそこ楽しいのだが、そこそこ長く働くと身体が悲鳴をあげているのは感じる。

まあこれは単に年を重ねたことによるのかもしれない。

働くとやはり週末のありがたさが身にしみる。休みが少ないからこそ、あれをやろうこれをやろうという思いもわいてくるし、間延びもしない。やはり仕事あっての楽しめる休日だなあと思った。
さて、日本で生活していたころには、仕事の合間の休みには海外旅行!と決め込んでいたのもあり、他の軽い活動以外で、継続して時間を割いて打ち込んでいるものはおらず、「仕事が忙しくなくて時間があればあれもこれもできるなあ」と、思っていたことがたくさんあった。あの技術書を読破しようとか、お寺生活時代に考えたことをまとめようとか、テニス習おうとか。

しかし、いざ1年もの休みを得ると、これらのことは実際にはあまりできなかった。ちょっともったいなかったなという後悔がある。

一方で、大切なことをひとつ学んだ。
それは、本当にやらなければいけないと感じることは"~タラやろう","~レバできる"で後ろのキューにまわしてはいけないということ。それらは、無理してでも"今"やらなければ、一生されないと考えたほうがよいということ。そして、それを知った上でなおも、タラレバでやろう、と考えてしまうことは、最初からあきらめてで捨ててしまった方が精神的な荷物が減って楽に生きることができるということ(その象徴は、「いつか読み直したい」程度の本などは捨ててしまって部屋を広くしろというようなこと)。
「後でやる気があるのだ」と思うようにすることは自分に対する言い訳として、一瞬楽にする効果があるが、そうやって作られた宿題は「今を生きる」ことに没頭しきることを妨げている気がする。

若く心身ともに健康な時に1年の暇があってできないことは、今後もできない可能性が極めて高い。もちろん想像もしない機会があるかもしれないし、自分自身の精神構造が変わるかもしれないので、可能性は残しておきつつ、ちょっと心を軽くしてみようかなと思った。

と、言葉のままに実行してゆくのはとても難しいことであると知りつつ、長い休暇で学んだことを忘れないでおきたいと、敢えて文字にしてみた。